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福岡高等裁判所 昭和63年(う)152号 判決

主文

原判決のうち、被告人四名に関する部分を破棄する。

被告人四名はいずれも無罪。

理由

本件各控訴の趣意は、被告人Aの関係では弁護人本田稔及び同村井正昭連名提出の控訴趣意書、被告人B子、同C及びDの関係では弁護人角銅立身提出の控訴趣意書並びに被告人B子、同C及び同D提出の各控訴趣意書に、それぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。

第一原判示第二の事実に関する事実誤認の主張(被告人A関係)について

所論は、要するに、被告人Aは、原判示第二のように甲野太郎から現金二〇〇万円の供与を受けたことはなく、同判示の趣旨でその山田市長としての職務に関し賄賂を収受した事実はないのに、信用性に欠ける原審第一三回及び第一五回公判調書中の証人甲野太郎の各供述部分、証人甲野太郎に対する原審裁判所の尋問調書(以下併せて「甲野太郎証言」という。)並びに任意性・信用性のない被告人Aの検察官に対する昭和六〇年一一月二二日付及び同月一五日付各供述調書(原審検一三七、一三八号、以下本項においては併せて「被告人Aの検面供述」という。)を採用し、被告人Aが原判示第二のとおり現金二〇〇万円の賄賂を収受したと認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある、というのである。

そこで、原判決挙示の関係各証拠を含む原審記録に当審における事実取調の結果を併せ検討するに、被告人Aが原判示第二のように現金二〇〇万円の賄賂を収受したとの事実を認定するに足る証拠は存しないというべきである。その理由は以下のとおりである。

一  有罪立証の直接証拠と被告人Aの弁解

1  有罪立証の直接証拠

被告人Aが原判示第二の賄賂を収受した旨いう直接証拠は、甲野太郎証言及び被告人Aの検面供述のみであり、その概略は次のとおりである。

(一) 甲野太郎証言

甲野太郎証言は、丁原産業株式会社(以下「丁原産業」という。)が福岡県山田市内で行う水洗炭業の登録に関し、山田市長である被告人Aが、昭和五九年一〇月一三日登録反対意見書を福岡県総務部鉱害課長に提出したため、福岡県知事の登録を受けることが困難となったことから、同社代表者である甲野太郎において、被告人Aに右意見書の趣旨を同社にとって便宜有利な取扱いである登録賛成へと変更し再度同課長に提出して登録を受けられるように取り計らってもらいたいとの趣旨で、同月一九日ころ戊田一夫とともに被告人Aをその自宅(肩書住居地)に訪ね、その庭において、西日本銀行川崎支店から融資を受けるなどして用意した現金二〇〇万円を供与した、というものである。

(二) 被告人Aの検面供述

被告人Aの検面供述は、昭和五九年一〇月一九日ころ自宅庭において、訪ねてきた甲野太郎と戊田に会い、その供与の趣旨を知りながら甲野太郎から現金二〇〇万円を収受し、その後、丁原産業が登録を受けられるように努め、山田市長として市議会の各種委員会においてあるいは福岡県総務部鉱害課長に対し、県の監督指導が強くなされるので登録させた方がよいなどと意見を述べた、というものである。

2  被告人Aの弁解

被告人Aの原審(第三回公判調書中の被告事件に対する陳述部分、第八回、第一七回、第一九回、第二五回公判調書中の各供述部分、第三六回公判廷における供述)及び当審(第六回、第七回公判廷における各供述)における弁解は、昭和五九年一〇月一九日ころ甲野太郎から現金二〇〇万円の供与を受けた事実はなく、賄賂を収受したことはないし、甲野太郎が来たという同月一九日夕方には自宅におらず、また丁原産業のために自分の方から登録を求めて働きかけたようなことは一度もなかったのに、捜査段階においては、警察官から連日長時間にわたり、怒鳴られたり叱られたり罵倒されたり、さらには同じ姿勢を強いられたりするなどの不当な取調を受けたため、警察官らのいうままにやむなく虚偽の自白をした、というものである。

なお、戊田は昭和六〇年九月に死亡しており、その供述調書や証言は本件審理に供されていない。

二  間違いがないと認められる事実

関係各証拠を総合すると、次の事実は間違いがないと認められる。

1  甲野太郎が代表取締役をしていた丁原産業は、昭和五九年五月ころから福岡県山田市大字熊ケ畑に水洗炭業を行う山田事業所を開設し、戊田から原炭(ボタ)を購入して試験操業を始め、同年六月には水洗炭業に関する法律に基づき山田市長に福岡県知事宛の登録申請書を提出したので、山田市長である被告人Aは「場内水、施設の管理、雨期対策等万全を期されたい。」旨記載した登録賛成の同年七月一四日付意見書を付し、これを乙野土木事務所長を経由して福岡県総務部鉱害課に進達していたが、同年九月二七日同事業所は大規模な汚水流出事故を起こし、農地の汚染や山田市上水道の取水制限などの多大の被害を生ぜしめるに至った。

2  山田市議会は、同年一〇月一二日地方自治法九九条二項に基づき丁原産業山田事業所の水洗炭業の登録に反対する旨の意見書を議決し、市長である被告人Aにおいても「環境破壊につながる水洗炭事業につき、厳重なる対処方を願う。」旨いう登録反対の修正意見書を作成して、同月一三日ともに福岡県総務部鉱害課長に提出した。

3  甲野太郎は、このままでは丁原産業山田事業所が福岡県知事から水洗炭業の登録を受けることが困難となり、二億円以上の投資をした同事業所の操業継続が危うくなることから、右両意見書の趣旨を登録賛成へと変更させ、なんとしてでも同県知事から登録を受けたいと考えていた。

4  甲野太郎は、右汚水流出事故後間もなくの同月二日ころ、西日本銀行川崎支店の丙山支店長と交渉して二〇〇万円の融資の約束を取り付け、甲野太郎の息子で丁原産業取締役の甲野一郎において、同月一八日右融資を受けた。

5  山田市と丁原産業との間に、同年一一月九日付で同社の水洗炭業操業にあたっての公害防止協定が締結された。

6  甲野太郎は、同年一二月二日ころ、山田市議会議長の丙川春夫及び同市議会議員の丁川二夫に対し、丁原産業山田事業所の水洗炭業の登録について、同市議会の前記意見書の趣旨を変更して賛成の議決をするなど便宜有利な取扱いをしてもらいたいとの趣旨で、現金三〇〇万円及び額面一〇〇万円の約束手形一通を供与した(原判示第三は丙川春夫のこの収賄の事実)。

7  昭和六〇年一月一〇日ころ山田市土木課において、登録を前提とする市長の再修正意見書が起案準備された。

8  同年七月一七日の丁原産業山田事業所による再度の大規模な汚水流出事故後の同月二五日、福岡県総務部鉱害課長戊原三夫が、同社の登録申請書を返戻する決意を固め、山田市長である被告人Aの意向を照会したところ、被告人Aは、既に同月一八日に山田市議会産業建設委員会において登録のうえ県の管理下に置くことの同意を得ているし、同市議会総務委員会においても同様の同意を得られると思う旨述べて、登録申請書の返戻ではなく登録の方向での処理を望むような意向を示した。

9  しかし、結局同月末ころ右登録申請書は返戻され、丁原産業山田事務所は登録を受けられないまま操業を止めるに至り、甲野太郎は、同年九月二日同事業所の視察に訪れた被告人Aに対し、立腹のあまり肩を突く暴行に及んだ。

右1ないし3の事実からすれば、本件当時甲野太郎が被告人Aに贈賄をしようと考えるに足る客観的状況のあったことは明らかであるところ、甲野太郎証言は、右4の西日本銀行川崎支店から融資を受けるなどして用意した現金二〇〇万円を甲野一郎から受け取りこれを賄賂としたが、結局登録を受けられず丁原産業山田事業所の操業を止めるに至ったため、二〇〇万円も収賄しながら頼み甲斐のなかった被告人Aに対する腹立ちから右9の暴行に及んだ旨いうのであり、また被告人Aの検面供述のいう丁原産業が登録を受けられるように努めた具体的事実が右5、7、8であるとみることもできなくはないので、これらの点からすると、原判決の説示するように甲野太郎証言や被告人Aの検面供述のいうところは他の関係各証拠とも符合していると思われ、また甲野太郎が右6のように市議会議長の丙川春夫らに四〇〇万円贈賄したのであれば、市長の被告人Aにも二〇〇万円贈賄したとして不合理はないとも考えられるから、甲野太郎証言や被告人Aの検面供述の信用性を肯定し、被告人Aの弁解を排斥した原判決の判断も、相当の理由があるといえそうである。

しかしながら、被告人Aの弁解に副う次の事実もまた間違いがないと認められる。

10  被告人Aは、甲野太郎から右9のような暴行を受けたその日のうちに上嘉穂警察署に被害の状況を通報した(原審第二五回公判調書中の被告人Aの供述部分一九二項以下により認める。)。

11  甲野太郎は、右6の丙川春夫らに対する四〇〇万円のほか、昭和五八年九月ころいわゆる鉱害屋の甲田四夫に対し、丁原産業山田事業所における水洗炭業操業のために地元の水利権者や山田市長である被告人Aへの運動費等として二〇〇〇万円を渡したことがあったが、右のように同事業所における水洗炭業の操業ができなくなったことから、昭和六〇年九月二五日ころ丁原産業総務部長の丙野五夫に対し、甲田四夫に二〇〇〇万円、丙川春夫らに四〇〇万円渡していることを告げ、どんな方法をとってでもそれを取り返してくるように指示し、特に既に逮捕されていた丙川春夫の分はその妻に話して取り返してくるよう指示したが、被告人Aに対する本件贈賄の二〇〇万円については取り返せなどとは指示しなかった(甲野太郎の検察官に対する同年一一月一四日付供述調書抄本―当審弁三三号により認める。なお、右供述調書は抄本であるが、その体裁や供述の流れからして、一部欠けている部分に被告人Aに関する指示の点が述べられていることは考えられない。)。

ところで、もし被告人Aが本件収賄の罪を犯していたのであれば、甲野太郎から肩を突く程度の暴行を受けただけで、何故右10のようにその日のうちに警察に通報などしたのかにわかには理解し難い。警察官の取調によって、甲野太郎の暴行の動機が、被告人Aに二〇〇万円も贈賄したのに丁原産業山田事業所が水洗炭業の登録を受けられないまま操業できなくなって多額の損失を負ったことにあったと判明すれば、自ら墓穴を掘ることになることは明らかだからである。現に、甲野太郎は右事件で昭和六〇年一〇月三一日逮捕され(甲野太郎証言原審第一五回一九項以下、甲野太郎の検察官に対する同年一一月一四日付供述調書抄本―当審弁三三号により認める。)、被告人Aも同年一一月三日には右事件の被害者として折尾警察署で事情聴取に応じ(被告人Aの司法警察員に対する同月二六日付供述調書五項―原審検三六四号により認める。)、同月四日甲野太郎が被告人Aに対する本件贈賄の事実を自白する(甲野太郎の司法警察員に対する同日付供述調書―当審検三八号により認める。)に及んで、同日午後一〇時二〇分甲野太郎が本件贈賄の、被告人Aが本件収賄の各被疑事実によりそれぞれ逮捕された(原審身柄記録により認める。)のであるから、甲野太郎には後述のように既に山田市議会議長の丙川春夫に対する贈賄の嫌疑がもたれていたとはいえ、本件贈収賄の捜査は甲野太郎の被告人Aに対する暴行事件による逮捕をきっかけに進んでいるのである。もっとも、甲野太郎から暴行を受けた現場には他の者もいたため、被告人Aもその手前警察に通報せざるをえなかったし、甲野太郎も贈賄の事実を警察官に供述すれば自らも処罰を受けるのであるから、被告人Aは甲野太郎がその事実を述べるはずがないと思っていたと考える余地もないではない。しかし、甲野太郎が山田事業所における水洗炭業の失敗により多額の損失を負い自棄的な言動に出るおそれも多分にあった当時の状況下では、被告人Aがそのように思っていたとは考え難い。被告人Aが甲野太郎から暴行を受けた事実を右のように警察に通報したのは、やはり被告人Aには甲野太郎に対しなんらやましい点がなかったからであると考えるのが最も合理的である。また、甲野太郎が本当に被告人Aに二〇〇万円贈賄したのであれば、何故右11のように被告人Aに供与した現金についてだけ取り返してくるよう指示しなかったのか理解し難い。

右10、11の事実は甲野太郎証言及び被告人Aの検面供述の信用性に直接合理的な疑いを容れるものとまではいえないとしても、被告人Aの弁解に副う客観的事実とみるのが相当である。

三  甲野太郎証言及び被告人Aの検面供述の信用性の検討

そこで、甲野太郎証言及び被告人Aの検面供述の信用性について、そのいうところをその各供述経緯に関する証拠あるいはその公判供述の証明力を争うための証拠(刑事訴訟法三二八条の証拠)の内容等とも照らし、また二で認定した事実を関係各証拠とも対比するなどしながら子細に検討すると、以下のように、甲野太郎証言及び被告人Aの検面供述には信用性に疑いを容れるべき点が少なくなく、二で認定した4ないし9の事実も、必ずしも甲野太郎証言及び被告人Aの検面供述を裏付けその信用性を担保するに足るものとはいい難いと考えられる。

1  甲野太郎証言

(一) 犯行年月日について

原判決は、起訴状の公訴事実記載の犯行年月日が「昭和五九年一〇月一九日ころ」とあるのを「昭和五九年一〇月中旬ころ」と認定しながら、その理由について特別の説示をしていないが、原審第二一回及び第二三回公判調書中の証人丙川春夫の各供述部分、証人E子に対する原審裁判所の尋問調書並びに原審第二五回公判調書中の被告人Aの供述部分等により、被告人Aが同月一九日夕方には自宅にいなかった疑いがあるとして、右のような認定をしたものと推測される。しかし、甲野太郎証言は、被告人Aへの賄賂に供した現金二〇〇万円は、前示のように甲野一郎が同月一八日に西日本銀行川崎支店から融資を受けるなどして用意したもので、甲野一郎から受け取った日に被告人Aに供与したというのであり、原審第一三回公判調書中の証人甲野一郎の供述部分(以下「甲野一郎証言」という。)によれば、甲野一郎は西日本銀行川崎支店から融資を受けた翌日にこれを甲野太郎に渡したというのであるから、甲野太郎が被告人Aに賄賂を供与した日は同月一九日ということになる。しかも、甲野太郎の検察官に対する昭和六〇年一一月二一日付供述調書一四項によると、被告人Aに賄賂を供与した日は、昭和五九年一〇月一九日ころの平日であったといい、暦によって明らかなように同月一八日は木曜日、同月一九日は金曜日であるから、右の甲野一郎証言と併せ考えると、甲野太郎が被告人Aに賄賂を供与した日は同月一九日以外にないことになる。原判断のように被告人Aが同日夕方には自宅にいなかった疑いがあるとすると、甲野太郎証言や甲野一郎証言によって特定される日に犯行が行なわれることは不可能であった疑いが生じるのであり、被告人Aに賄賂を供与した旨いう甲野太郎証言の信用性にも重大な疑問を容れるべきことになろう。

もっとも、被告人Aが同日夕方に自宅にいなかったことは、必ずしも間違いのない事実とまで認定できるものではないし、乙山一郎証言の現金二〇〇万円を甲野太郎に渡したという日が西日本銀行川崎支店から融資を受けた日の翌日であるというのも、勘違いである可能性を全くは否定できないから、右の点から被告人Aに賄賂を供与した旨いう甲野太郎証言をただちに信用できないとするのも早計に過ぎよう。

(二) 贈賄を決意した時期、理由と西日本銀行川崎支店への融資申込の時期について

二の4の西日本銀行川崎支店から二〇〇万円の融資を受けた事実は、本件賄賂金の出所を裏付け甲野太郎証言の信用性を担保する重要な点である。しかし、甲野太郎が被告人Aへの贈賄を決意した時期、理由と西日本銀行川崎支店へ融資の申込をした時期に注目してその供述をみると、甲野太郎証言のいうように右二〇〇万円が被告人Aに賄賂として供与されたとはにわかに信じ難い。

すなわち、甲野太郎の司法警察員に対する昭和六〇年一一月一八日付供述調書は、西日本銀行川崎支店に残る右融資に関する資料を見たうえ、汚水流出事故を起こした昭和五九年九月二七日から間もなく、被告人Aに登録賛成の意見書を取消ないし撤回され、水洗炭業に反対されることのないよう現金供与を決意し、同年一〇月二日その賄賂金準備のため西日本銀行川崎支店に融資を申し込んでその約束を得たが、同月六日ころ戊田とともに被告人A方に詫びに行きけんもほろろの扱いを受けた時には、「誰がお前なんかに金をやるものか。」と思ったものの、その後同月一三日に登録反対の意見書が福岡県総務部鉱害課長に提出されるに及んで、登録反対の意見書を取消か撤回させて登録のために便宜を計ってもらおうと再度贈賄を決意したと述べ、その検察官に対する昭和六〇年一一月二一日付供述調書も、右の被告人A方に詫びに行った後に思ったことについては触れていないものの、西日本銀行川崎支店に融資の申込をした時期や被告人Aに対する贈賄を決意した時期と理由に関しては右供述を維持し、甲野太郎証言はやや不明瞭な部分もあるが、検察官に対する右供述調書において述べるところとほぼ同旨のものと理解されるのである。しかし、甲野太郎証言によると、甲野太郎は、昭和五九年一〇月当時は被告人Aには既に甲田四夫に渡した二〇〇〇万円のうちから五〇〇万円が渡っていると思い込んでいたというのであるから、同月初旬ころの時点では、甲野太郎は被告人Aが登録賛成の意見書を簡単に取消や撤回して丁原産業山田事業所の水洗炭業に反対することはまずないと考えていたであろうと思われ、そのことは同月二日の福岡県総務部鉱害課戊川課長補佐と甲原主査による現地指導の際に、甲野太郎が「山田市から被害の申し出はない。農民は何も言っていない。市議会だけが騒いでいる。議会対策はしている。」と述べて、市長の態度を問題にしていないこと(押収してある丁原産業に関する事績二の1一冊―当庁昭和六三年押第二三号の4により認める。)からも窺われるのであるから、同月二日ころ既に甲野太郎が被告人Aに対する贈賄を決意していたかは疑わしいというべきである。また、同月六日ころ被告人A方に詫びに行く前既に西日本銀行川崎支店からの融資の段取りを付けていたとしながら、その際に賄賂を供与しなかった理由として、甲野太郎の検察官及び司法警察員に対する右各供述調書では、被告人Aが登録にどのような意見を持っているのか分からず、一面識もない被告人Aにいきなり現金を持っていっていいものかふんぎりがつかなかったため、戊田に相談すると最初から金を持っていくのはどうかと思うと言われたからであると述べているが、これも既に五〇〇万円渡していると思っていた被告人Aに対して同月六日ころに賄賂を供与しなかったことの理由としては不合理と思われる(既に五〇〇万円渡していると思い込んでいたので、さらに賄賂を供与する必要がないと思ったというのが合理的であろうが、それでは右融資申込の理由と矛盾することになる。)。これらを併せ考えると、西日本銀行川崎支店への融資申込が被告人Aへの賄賂金の準備であった旨いう甲野太郎証言はにわかに信じ難く、ひいては右融資を受けた二〇〇万円が被告人Aへの賄賂となった旨いう部分も信用するに足るものか疑問が残る。二の4の西日本銀行川崎支店から二〇〇万円の融資を受けた事実は、甲野太郎証言の本件賄賂金の出所に関する部分の裏付けには必ずしもならないというべきである。

(三) 丙川春夫市議会議長らへの贈賄について

甲野太郎が二の6のように市議会議長の丙川春夫らに四〇〇万円贈賄したとすれば、市長の被告人Aにも二〇〇万円贈賄したとしても不合理はないと考えられることは、前叙のとおりである。しかし、前示のように甲野太郎は昭和五九年一〇月当時は被告人Aには既に甲田四夫に渡した二〇〇〇万円のうちから五〇〇万円が渡っていると思い込んでいたのであり、また甲野太郎証言やその検察官に対する昭和六〇年一一月二一日付供述調書一八項によれば、丙川春夫からは右の四〇〇万円のうち一〇〇万円は被告人Aに渡す金である旨聞いていたというのであるから、それらをも併せみると、丙川春夫に贈賄しながら被告人Aに対しては直接には贈賄しないことも決して不自然なこととは思われない。むしろ、甲野太郎証言のいう被告人Aへの贈賄に至る経緯と丙川春夫らへの贈賄に至る経緯とを比較し、殊に甲野太郎の丙川春夫に対する言動や認識をも考え併せると、甲野太郎は贈賄工作の焦点を市長の被告人Aではなく市議会議長の丙川春夫に当てていて、被告人Aに対しては直接には贈賄しなかったのではないかとみる余地が多分にある。

すなわち、甲野太郎証言によると、甲野太郎は、被告人Aに対しては昭和五九年一〇月六日ころ戊田とともに謝罪の挨拶に自宅を訪ね、庭先でけんもほろろの応対を受け、持参した手土産の菓子さえ受け取ってもらえない扱いをされた後、特別の接触もしないまま同月一九日ころ現金二〇〇万円の贈賄に及んだというのであるが、丙川春夫に対しては、被告人A方に行った後戊田とともに謝罪の挨拶に自宅を訪ね、その後も両三度訪ねて登録に向けての協力を依頼するとともに運動費名目での贈賄を約束したうえ、同年一二月二日ころ現金三〇〇万円及び額面一〇〇万円の約束手形を供与したというのであり、その間同年一〇月二五日ころ丙川春夫に対して「自分に恥をかかせたA市長を次の市長選挙の時に絶対に落として、議長を市長にしたい。応援しましょう。」と述べたことを自認している。右発言には尽力を依頼する丙川春夫に対する追従としての一面もあるにせよ、同月六日ころに詫びに行った際に被告人Aから受けた応対に対する腹立ちも強く現れているとみるのが相当であろう。ここで注意を要するのは、甲野太郎証言が被告人Aに現金二〇〇万円の賄賂を供与したとする日の約一週間後に右発言がなされているという点である。甲野太郎が、同月六日ころ戊田と詫びに行った際の被告人Aの応対に腹を立てたことは間違いないにしても、同月一九日ころ被告人Aに本件賄賂を供与したとすれば、その約一週間後ころは被告人Aの尽力により登録が可能になるよう期待していたはずの時期であり、右の腹立ちもなくなるかあっても表に出さないのが普通であろう。そうだとすると、甲野太郎が右の時期にそのような発言をしたことからは、同月一九日ころに被告人Aに贈賄した旨いう甲野太郎証言の信用性にも疑問を容れる余地があるばかりでなく、甲野太郎の検察官に対する昭和六〇年一一月二一日付供述調書六項のいうように、甲野太郎は戊田から最初に丙川春夫方を訪ねる前に「丙川議長は山田市では市長よりも権限を持っていて、陰の市長といわれている。」旨聞いていたこととも考え併せると、甲野太郎は贈賄工作の焦点を拒否的な態度をとった市長の被告人Aではなく、陰の市長といわれるだけの実力者で受容的な姿勢の窺えた市議会議長の丙川春夫に当てていたものとみる余地が多分にあり、被告人Aに対して直接には贈賄しなかったとしてもおかしくはないと考えられる。甲野太郎が二の6のように市議会議長の丙川春夫らに贈賄した事実をもって、市長の被告人Aにも贈賄した旨いう甲野太郎証言の合理性を担保するものとみることはできない。

(四) 本件の具体的状況について

甲野太郎証言は、昭和五九年一〇月一九日ころ戊田と被告人A方を訪ね、その庭先で賄賂である現金二〇〇万円の入った紙袋を被告人Aに渡した旨述べており、その内容は一応具体的ではある。しかし、甲野太郎証言が右贈賄の日に被告人A方を訪ねた状況、特に戊田が被告人Aの妻に案内を乞い、被告人Aがいると聞いて庭に廻り、ツツジの剪定をしている被告人Aに声をかけたというところは、同月六日ころに被告人A方を訪ねた状況についていうところとほとんど同じであり、その中には同月六日ころとは別個に同月一九日ころに被告人A方を訪ねたことを窺わせる新規な点は見出し難い。そして、贈賄の具体的状況、特に現金を新聞紙に包んでいたか封筒に入れていたか、甲野太郎らのいた位置と被告人Aのいた位置のどちらが高かったかなどの点についていうところは、当初の供述からあるいは証言の前後において変遷がみられる。また甲野太郎証言は、現金二〇〇万円を入れた封筒を手提げの小さい紙袋に入れたのを被告人Aに手渡したというのであるが、なるほど屋内ではなく他から覗かれる心配のある庭先での贈賄であるから、封筒そのままより手提げの紙袋に入れて渡す方が人目には現金と思われにくいけれども、屋内でなく庭先で贈賄することになったのは、たまたまそうなったにすぎないはずであり、甲野太郎の丙川春夫に対する贈賄や乙田六夫に対する贈賄の申込が、いずれも背広やブレザーの内ポケットから現金入りの封筒を取り出して行われた(甲野太郎証言、甲野太郎の司法警察員に対する昭和六〇年一一月二〇日付供述調書謄本―当審検四七号、乙田六夫の司法警察員に対する供述調書―当審検三二号等により認める。)のと対比すると、被告人Aに対する贈賄のみが現金入りの封筒をさらに紙袋に入れて行われたというのは不自然な感じを拭いきれず、異例な庭先での贈賄のもつ不合理を糊塗するための作為との感もするのである。さらに、甲野太郎証言が右の紙袋を渡したときの被告人Aとの位置関係について最終的にいうところによれば、甲野太郎と戊田の方が被告人Aより約三五ないし五〇センチメートルも高かった(原審裁判所の検証調書により認める。)というのも、両者の立場を考えるとやや不自然な感が残らざるをえない。してみると、甲野太郎証言の本件贈賄の際の状況として述べるところ自体にも、その信用性を肯定しうるだけの迫真性はないというべきである。

(五) 甲野太郎の被告人Aに対する暴行について

二〇〇万円も収賄しながら頼み甲斐のなかった被告人Aに対する腹立ちから二の9の暴行に出た旨いう甲野太郎証言は、それ自体合理性に欠けるものではない。しかし、甲野太郎が被告人Aに対して暴行に及ぶ動機は右以外にも充分存すると思われる。すなわち、甲野太郎は山田事業所の操業を登録を受けられないまま止めることになり多額の損失を負ったものであるが、昭和六〇年二月一三日の福岡県総務部鉱害課のT野係長と甲原主査による水洗炭業者巡回指導の際に、丁原産業が「山田市長が(再修正意見書を)書かないから県が登録できないことはわかっている。いずれ市と対決する。」と述べている(前記丁原産業に関する事績により認める。)ことなどからも、甲野太郎は山田事業所における水洗炭業の失敗の原因を被告人Aにあると考え恨みに思っていたであろうことが窺われるうえ、甲野太郎は前示の甲田四夫に渡した二〇〇〇万円について、後日実際には甲野から被告人Aに供与されていなかったことが判明したけれども、昭和六〇年九月当時においてはまだ被告人Aにそのうち五〇〇万円が渡っていると思い込んでいたというのであるから、被告人Aが本件収賄をしていなかったとしても、甲野太郎には二の9のような暴行に出る動機が充分あったものと考えられ、右暴行の事実から甲野太郎証言の信用性が補強されるものとも認め難い。

(六) その他

自らに不利な事項、殊に犯罪事実を任意に述べる供述は、一般的には信用性が高いというべきである。甲野太郎証言もまた自らの被告人Aに対する贈賄の犯罪事実を任意に述べる供述である。しかし、これまでみてきたところからすれば、甲野太郎証言には右の一般論をそのまま適用することはできない。すなわち、甲野太郎は、市議会議長の丙川春夫に対する四〇〇万円の贈賄の事実が既に発覚しており(証人乙山七夫及び相被告人丙川春夫の原審公判廷における各供述により認める。)、いずれにしろ処罰を免れない立場にあったうえ、山田事業所での水洗炭業を止めざるをえなくなって多額の損失が生じたため、その恨みを登録に非協力的であった被告人Aに向けることも充分考えられるところ、市議会議長に贈賄したのなら市長にもしたのではないかとの予断を抱いた捜査官が、そのような甲野太郎に対して自白を迫まれば虚偽の自白は容易になされうるし、また公判段階になっても維持されて不思議はないからである。甲野太郎証言は自らの犯罪事実を任意に述べる供述であるとして、それだけでその信用を肯定するわけにはいかない。

(七) まとめ

以上検討してきたところによれば、被告人Aに対する本件贈賄をいう甲野太郎証言は、その内容自体重要な部分において不合理不自然な点を含んでいて迫真力に乏しく、また必ずしも客観的事実によって内容の真実性が担保されているわけでもないうえ、虚偽の供述をはらむおそれもないとはいい難く、その信用性は高くはないというべきであって、被告人Aの検面供述の信用性が肯定されない限り、甲野太郎証言のみで被告人Aの本件収賄の事実を認定することはできない。

2  被告人Aの検面供述

(一) 収賄を決意した理由について

被告人Aが、昭和五九年一〇月六日ころ戊田とともに自宅に訪ねて来た甲野太郎に対し、庭先で素っ気ない応対をして持参した手土産の菓子さえ受け取らなかったことや、同月一三日に福岡県総務部鉱害課長に対し山田市議会が登録反対の意見書を提出するのと併せて自らも登録反対の意見書を提出したことについては、前示のとおり間違いのないところである。被告人Aの検面供述によると、甲野太郎から現金二〇〇万円を収賄したのは同月六日ころに甲野太郎らに右のような応対をし、同月一三日に右意見書を提出した一週間位後の平日だったというのであり、甲野太郎に対する態度が、約二週間で手土産の菓子さえ拒否するものから易々と収賄するものへと一変した理由は、つまるところ現金を持ってきたと分かって欲しいという気になったからというのである。しかし、被告人Aにとって甲野太郎から収賄することは、登録が可能になるように意見書を賛成へ再修正するなどの取り計らいをすると約束することにほかならないが、市議会が反対意見書を議決しているなかでは、被告人Aの一存で意見書を賛成へ再修正などすることは困難なはずであり、同月一九日ころの段階で被告人Aに市議会の反対意見を抑え、意見書を賛成へ再修正などする確実な見込みがあったとは認め難く、被告人Aの検面供述にもそのようにいう部分は存しない。また、被告人Aが意見書の賛成への再修正などできないまま、丁原産業が登録を受けられなかったときに、甲野太郎が被告人Aに対し何の要求もなさず、また何の報復的な行動にも出ないことまでの信頼関係が、ふたりの間にあったともとうてい認められない。被告人Aの検面供述に述べられている戊田に対する信頼や戊田と甲野太郎との信頼関係もそこまでいうものではない。してみると、同月六日ころに手土産の菓子さえ拒否しながら同月一九日ころに易々と現金を収賄した旨いう被告人Aの検面供述は、まずその収賄を決意した理由の点で疑問を容れる余地がある。

(二) 本件の具体的状況について

被告人Aの検面供述が、昭和五九年一〇月一九日ころに甲野太郎から現金二〇〇万円を収賄した状況についていうところは、一応具体的ではある。特に、昭和六〇年一一月一七日に実施された実況見分立会以前には、甲野太郎から現金入り封筒の入った紙袋を直接手渡しで受けた旨述べていたのに、右実況見分立会以後には、実況見分に立会して記憶が鮮明になったとして、現金入り封筒の入った紙袋を直接手渡しで受けたのではなく、甲野太郎はすぐ側の庭石の上にその紙袋を置いた旨述べている点は、それだけみれば供述の信用性を高めるものというべきであろう。しかし、甲野太郎証言は、被告人Aに現金入り封筒の入った紙袋を直接手渡した旨いうのであり、しかもその態様を非常に具体的にいうものであるだけに、被告人Aの検面供述の右部分にすぐさま信用性を認めるわけにはいかない。むしろ、甲野太郎証言と被告人Aの検面供述の不一致として指摘すべきものと思われる。そして、被告人Aの検面供述が本件収賄の際の具体的状況として述べるところには、先に1の(四)で述べた疑問点がそのまま妥当するのであって、これによればその信用性を肯定しうるだけの迫真性はないというべきである。

(三) 賄賂金の処分について

収賄者が賄賂をどのように処分したかは、収賄の事実の存在を認めるうえで非常に重要な点である。被告人Aの検面供述にもこれに関する部分がある。現金二〇〇万円のうち一〇〇万円は積み金が満期になったとして妻に渡し、残りの一〇〇万円は応接間の額の裏に隠しておき、昭和五九年一二月ころに一五万円位を生命保険の掛け金として、また同月下旬ころに一〇万円を元旦の市の職員らの接待費用としていずれも妻に渡したり、昭和六〇年三月初旬ころに二〇万円を日吉神社の再建のために寄付したりなどしたほか、交際費や出張時の費用として費消したというのである。しかし、被告人Aが積み金が満期になったとして妻に渡したという一〇〇万円については、妻においてそれを受け取りどのようにしたかを裏付ける証拠は存しない。また、生命保険の掛け金や元旦の接待費用、日吉神社への寄付として右金額を出金したことは間違いないと考えられるものの、被告人Aの司法警察員に対する同年一一月二四日付供述調書からは、それと同じか近い金額が同じころに被告人Aやその妻名義の預貯金から引き出された事実も窺えるのであって、賄賂の一部が右の生命保険の掛け金や元旦の接待費用、日吉神社への寄付に当てられたことが裏付けられているとはいい難い。むしろ、周知の事実である昭和五九年一一月一日から福沢諭吉肖像の一万円札(以下「新一万円札」という。)が発行されたこと(昭和五九年六月二五日大蔵省告示第七六号参照)をも考え併せると、日吉神社への寄付に賄賂の一部を当てたなどという部分には疑問を容れる余地がある。すなわち、被告人Aの検面供述によると、賄賂の二〇〇万円は全て一万円札であったというのであるから、これが聖徳太子肖像の一万円札(以下「旧一万円札」という。)であったことは明らかである。そして、周知のように旧一万円札は新一万円札の発行後次第に市中から回収されその流通量は少なくなっていったといえるところ、被告人Aの検面供述は、賄賂として受け取った金だから早く処分しなければいつ収賄の事実がばれるかも分からないという気があったといいながら、賄賂の旧一万円札を昭和六〇年三月ころまで多量に所持しなんらの危惧も感じないまま(被告人Aの検面供述にはこの点についてはなんら触れられていない。)寄付するなどして費消したことになるのであり、そのいうところの行動の間には矛盾がみられ、その実際の行動には収賄者としてやや無神経なものが窺われるのであって、被告人Aの検面供述のうち日吉神社への寄付に賄賂の一部を当てたなどという部分はすぐには信じ難い。さらに、被告人Aが交際費や出張時の費用としてその当時相当多額の出費をしたことについても間違いないと考えられるものの、これを市長としての給与や賞与その他の収入から支出したのでなく、本件賄賂から当てたことを裏付ける証拠は存しない。してみると、被告人Aの検面供述が賄賂をどのように処分したかについていう部分は、裏付けに乏しくまたその内容自体において不自然な点も存し、信用するに足るものとはいい難い。

(四) 収賄の見返りとしての言動について

被告人Aの検面供述は、収賄後その見返りとして丁原産業が水洗炭業の登録を受けられるようにいろいろ努力した旨述べている。二の5、7、8がその具体的事実とみれなくもないことは前叙のとおりである。しかし、子細に検討してみると、以下に述べるように、被告人Aが収賄後その見返りとして丁原産業が水洗炭業の登録を受けられるように努力したとはとうてい認め難い。

(1) 二の5について

公害防止協定の締結は操業を前提とするものであって、登録反対の立場と相入れない面のあることは多言を要しない。しかし、その締結が後に原判示第三のとおり甲野太郎から収賄することとなる市議会議長の丙川春夫や市議会産業建設委員長の丁川二夫が発案主導し、その強い要請の下に市の執行部が動かされた結果であることは関係各証拠から明らかである。被告人Aもこの公害防止協定の締結に原則的に賛成であったことはその自認するところであるが(原審第二五回公判調書中の被告人Aの供述部分九六項以下)、公害防止協定の締結により既に試験操業の名の下に実際に操業を行っている丁原産業山田事業所への市の職員による立ち入りや指導が可能になる利点があったことなどをも考え併せると、被告人Aの右の態度が本件賄賂を収受したことによるものとみるのは困難である。

(2) 二の7、8について

原審第一六回公判調書中の証人戊原三夫(福岡県総務部鉱害課長)及び原審第二七回公判調書中の証人甲原(同課主査)の各供述部分によると、被告人Aは表向きは登録反対の態度を取っていたけれども、本当は登録することによって非常に危険な施設である水洗炭施設を県が指導監督することを望んでおり、県知事が登録を認めうるような再修正意見書の提出の機会を窺っていた旨いうのであり、これをそのまま信用すれば、二の7、8の点は、被告人Aの右のような姿勢の現れということになろう。しかし、福岡県総務部鉱害課の丁原産業の本件水洗炭業登録申請に関する経緯の記録である前記丁原産業に関する事績をみると、昭和五九年一〇月六日の戊原課長や甲原主査らと山田市長被告人Aらとの協議の際に、市側の「全水利権者、全住民が反対しているので意見書を再提出し、前の同意を撤回する。登録されない場合の不法操業にどう対処するのか。」との発言に対し、県側が「(丁原産業は)一ないし二億投資している。地元の同意が得られ操業へ持っていければ幸いだが、無茶苦茶な不法操業をされても困る。登録し監視の中で操業させた方が安全な場合もある。」と発言しているのをはじめとして、同年一一月二二日の戊原課長や甲原主査と被告人Aらとの協議の際にも、県側が「地元同意が取れないとして(登録を)拒否するか、問題もあろうが登録させて県が指導していくか、二つに一つである。登録を拒否すれば業者は無登録でもやりかねない。そうなると県も手に負えなくなる。」などと発言し、昭和六〇年一月九日の県の丁野係長と甲原主査による水洗炭業者巡回指導の際の山田市からの事情聴取の機会には、県側が「登録前であり指導に限界がある。早期に登録したい。登録にあたっては市長意見書の再修正が必要である。」と述べて、山田市土木課甲川係長の「市長意見書の再修正について、部内協議のうえ早急に提出できるよう課長に進言する。」との発言を引き出し、同月一七日の同様丁野係長と甲原主査による水洗炭業者巡回指導の際の被告人Aらからの事情聴取の機会に、市側が「関係課で合議し、条件付で(再修正した)市長意見書を提出しようとしたが、(丁原産業が)汚水流出を繰り返しているので、市長の段階でストップした。(汚水の)流れる間は同意書は提出できない。」旨述べたのに対して、県側は「本日は市長意見書をいただき、登録を前提にした現地調査をするために来た。問題は多いが登録した後是正させることもできる。とにかく登録しないと県も手が出ない。」と述べていることなどが認められるのであって、これら一連の県側と市側のやりとりからすれば、県側こそが登録したうえで県の指導監督を受けさせるとの考えを持っていたのであり、当初登録に消極的であった被告人Aら市側は県側の説得を受け入れる形で動いたところ、県側が同年七月一七日の丁原産業山田事業所の再度の大規模な汚水流出事故をきっかけに登録申請書の返戻に態度を豹変させ、市側を狼狽させるような有様になったものであることが明らかである。してみると、二の7、8の点をもって、被告人Aが収賄の結果丁原産業山田事業所の登録のために努めた現れとみることには無理があり、むしろ被告人Aには収賄の見返りとみられるような登録に向けての積極的な言動は認められないというべきである(なお、前説丁原産業に関する事績中には、昭和五九年一一月一二日に戊原鉱害課長が被告人Aから電話で「登録操業は好ましくないが、甲野会長も誠意を示していることでもあり、地元も必ずしも反対ではない。登録についての判断は県の事務でもあるので、と考えている。一二月一七日に丙川市議会議長等と県に出向き相談したい。」旨聞いたとの電話連絡報告書があるが、右時期は山田市と丁原産業との前記公害防止協定締結の直後であり、関係各証拠によれば、同社が同年九月二七日に起こした汚水流出事故の山田市に対する損害賠償やギロの取り除き工事を実行しつつあったころであることが認められるので、被告人Aの右発言は右のような同社の動きにより軟化していたためのものとも考えられ、これを収賄によって登録に向けて努力した発言とみることはできない。)。

(五) 被告人Aに対する取調状況等について

被告人Aの検面供述の信用性について考えるうえで、その捜査段階での取調状況や自白に至る経緯を看過することはできないが、これについては、概ね原判決が「被告人らの供述調書の任意性について」と題して詳細に判示するとおりである。警察官が、被告人Aに対して、昭和六〇年一〇月一一日から一三日にかけて任意捜査でありながら主に原判示第五の事実の関係で早朝から夜遅くまで厳しい取調を行い、同月一一日には被告人Aが気分を悪くして数分間意識を失い医師の診察を受けた後も取調を継続し、同日と翌一二日には報道関係者が自宅を取り囲んでいるなどと申し向けて用意した宿に泊まらせて帰宅させず、また逮捕翌日の同年一一月五日には被告人Aの手がたまたま取調警察官の股間に当たったことから、「被疑者が取調官に手を当てるとはなにごとか。詫びろ。」と激しく叱責して謝罪を強要する一方で、繰り返し甲野太郎からの収賄の被疑事実について自白を求めるなどしたことは、健康に不安のある当時六八歳の被告人Aに虚偽の自白を強いるおそれのある行為であり、原審が、被告人Aの司法警察員に対する各供述調書を罪体立証の証拠としてではなく、その公判供述の証明力を争う刑事訴訟法三二八条の証拠として取り調べ、原判決が、警察での取調には問題があるというのも、その任意性に疑いを容れる余地があるとしたためであるとして理解できる。被告人Aが、逮捕されて二日後の同月六日の検察官による弁解録取の機会に「一〇〇万円だったか二〇〇万円だったかよく思い出せないが、甲野太郎から収賄したことは間違いない。」旨述べて(被告人Aの検察官に対する弁解録取書―当審検二四号)最初の自白をし、また翌七日の裁判官による勾留質問の機会にも「(二〇〇万円を甲野太郎から収賄したことは)間違いない。」旨述べている(被告人Aの裁判官に対する陳述調書―当審検二五号)ことは、その自白が早い段階でまた執拗な取調の行われるはずのない機会になされているだけに、その信用性を高める事情というべきであるが、それ以前の警察における取調が右のようなものであり、心身ともに疲労していた被告人Aに対し、警察官がさらに「検事の機嫌をこわさせたら大事になるぞ。一〇〇万か二〇〇万もらったと言っておけ。」とか「判事にも間違いないと言うとけ。そう言わないと大事になる。」などと申し向けたうえで、右弁解録取や勾留質問の機会における自白がなされたと認められるのであるから、その信用性をそのまま肯定するわけにはいかない。また、被告人Aが右自白後の同月一二日に山田市長の辞表を作成提出していることも、一般的には収賄による政治的責任をとったものとして、その自白の信用性を高める事情というべきであるが、関係各証拠によれば、本件を含む一連の贈収賄事件の捜査にあたった警察官らは、被告人Aのみならず他の公職にある被疑者や参考人らに対しても、辞表の作成提出を強く求めていることが窺われるのであって、被告人Aの右辞表の作成提出も、原審第二七回及び第二九回公判調書中の証人乙原九夫の各供述部分のいうような、被告人Aが自発的に言い出してなされたものではなく、被告人Aの弁解のいうように、警察官らが執拗に強いてなされたものと認めるのが相当であるから、これをもって右自白の信用性を肯定する事情とみるわけにもいかない。さらに、被告人Aに対しては、同月六日から同年一二月二三日までの間に一一回弁護人による接見がなされていることが認められるが、いずれも被告人の自白後になされた一〇分から三〇分の範囲の短時間のものであるので、これを自白の信用性を担保する事情とみることもできない。そして、被告人Aの検面供述は、その任意性についてはなるほど認めえないでもないとしても、甲野太郎から収賄した状況やその時の気持、賄賂の処分等について述べる部分をはじめとして、被告人Aの司法警察員に対する同年一一月一五日付、同月一七日付(二通)、同月二二日付及び同月二四日付各供述調書(原審検三五七、三五九、三六〇、三六二、三六五号)と表現、内容が非常によく似ており、これらをもとに総合整理して取り調べ録取されたものと考えられるから、その司法警察員に対する各供述調書から離れて信用性を肯定しうるものとは認め難い。してみると、被告人Aの検面供述は、警察官による相当に厳しく虚偽の自白を強いるおそれのある取調の強い影響の下に得られた自白であり、その内容の信用性を安易に肯定するわけにはいかない。

(六) まとめ

以上検討してきたところによれば、甲野太郎からの本件収賄をいう被告人Aの検面供述は、その内容自体重要な部分において不合理不自然な点を含んでいて迫真力に乏しく、また必ずしも客観的事実によって内容の真実性が担保されているわけでもないうえ、捜査段階での取調状況やその自白に至る経緯には虚偽の自白を招きかねない事情も窺えるのであるから、その信用性は認め難いというべきである。

四  被告人Aの弁解の信用性の検討

被告人Aの弁解にも信用できない部分がないわけではない。例えば、甲野太郎証言や被告人Aの検面供述の信用性を争うために、被告人Aは甲野太郎が自宅を訪ねてきたのは昭和五九年一〇月六日ころではなく、同月一〇日であることをはっきり覚えている旨弁解しているが、司法警察員作成の捜査報告書添付の山田市議会会議録によると、被告人Aは同月一二日に行われた市議会において、同月六日かに庭でツツジの手入れをしているときに甲野太郎が訪ねてきた旨発言していることが認められ、被告人Aが前々日のことを約一週間前のことと勘違いすることはまずありえないと考えられるから、被告人Aの弁解の右部分は、原審第二一回及び第二三回公判調書中の証人丙川春夫の各供述部分や証人E子に対する原審裁判所の尋問調書に一致させるため記憶に基づかない供述をしたものとみるのが相当である。また、被告人Aの弁解のうち、甲野太郎証言による本件収賄の日である同月一九日に自宅にいなかった旨いう部分についても、被告人Aが二年以上前のその日の行動について具体的な時間や夕方いったん自宅に帰ったかどうかについてまで、明瞭に思い出して供述したものとは考え難く、同様にみるのが相当である。さらに、被告人Aの弁解のうち、逮捕されて最初に検察官の前で自白したあと警察署に帰ってから一週間以上否認した旨いう部分も、被告人Aの検察官に対する弁解録取書の作成された昭和六〇年一一月六日と同日付や翌七日付で自白を内容とする司法警察員に対する各供述調書の作成されている事実に反することが明らかである。そして、被告人Aの弁解の中には、他にも自己の丁原産業山田事業所の水洗炭業登録問題に対する姿勢が最後まで登録を求めるものではなかったかのように述べたり、捜査官の取調の厳しさをやや過大に述べたりなどしていると窺われる部分がないではなく、その弁解の全てをそのまま信用するわけにはいかない。しかしながら、甲野太郎証言及び被告人Aの検面供述には、先に三において詳述したとおり、いくつかその信用性に合理的な疑いを容れるべき点があり、そのことは反面本件収賄を否定する被告人Aの弁解の合理性を示すものでもあるうえ、二の10、11のような本件収賄の不存在を窺わせる客観的事実も存するのであるから、被告人Aの弁解のうち本件収賄を否定する部分までも虚偽であるとして排斥することはできない。

五  結論

以上のとおりであって、原判示第二の事実の直接証拠である甲野太郎証言及び被告人Aの検面供述は、いずれも本件収賄を否定する被告人Aの弁解を排斥しうるだけの信用性を有するものではなく、他に右事実を認めるべき証拠は存しないから、被告人Aが原判示第二のとおり現金二〇〇万円の賄賂を収受したと認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある。論旨は理由がある。

第二原判示第四の一、二及び同第五の各事実に関する事実誤認の主張(被告人四名関係)について

被告人B子、同C及び同D関係の弁護人角銅立身の所論並びに右被告人三名の各所論は、要するに、被告人B子及び同Cは、原判示第四の一のように被告人Aに現金一〇〇万円を供与したことはなく、同判示の趣旨でその山田市長としての職務に関し賄賂を供与した事実はなく、もとより被告人Dが、同第四の二のように右現金供与に当たり被告人Cと被告人Aの間を仲介して被告人Cを被告人Aに引き合わせ、右贈賄を容易ならしめて幇助した事実もないのに、いずれも任意性・信用性のない被告人B子の検察官に対する昭和六〇年一一月一八日付及び同月二七日付各供述調書(原審検二二七、二二八号、以下併せて「被告人B子の検面供述」という。)、被告人Cの検察官に対する同月一五日付、同月二五日付及び同年一二月二日付各供述調書(原審検二三三ないし二三五号、以下併せて「被告人Cの検面供述」という。)、被告人Dの検察官に対する同年一一月一八日付及び同月二六日付各供述調書(原審検二三九、二四〇号、以下併せて「被告人Dの検面供述」という。)並びに被告人Aの検察官に対する同月二八日付供述調書(原審検二二五号、以下「被告人Aの検面供述」という。)を採用し、被告人B子及び同Cが、原判示第四の一のとおり被告人Aに現金一〇〇万円の賄賂を供与し、被告人Dが、同第四の二のとおり右現金供与に当たり被告人Cと被告人Aの間を仲介して被告人Cを被告人Aに引き合わせ、右贈賄を容易ならしめて幇助したと認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある、というのである。

また、被告人Aの弁護人本田稔及び同村井正昭の所論は、要するに、被告人Aは、原判示第五のように被告人B子及び同Cから現金一〇〇万円の供与を受けたことはなく、同判示の趣旨でその山田市長としての職務に関し賄賂を収受した事実はないのに、任意性・信用性のない前記被告人四名の各検面供述を採用し、被告人Aが原判示第五のとおり現金一〇〇万円の賄賂を収受したと認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある、というのである。

そこで、原判決挙示の関係各証拠を含む原審記録に当審における事実取調の結果を併せ検討するに、被告人B子及び同Cが原判示第四の一のように被告人Aに現金一〇〇万円の賄賂を供与し、被告人Dが同第四の二のように右贈賄を容易ならしめて幇助し、被告人Aが同第五のように現金一〇〇万円の賄賂を収受したとの事実を認定するに足る証拠は存しないというべきである。その理由は以下のとおりである。

一  有罪立証の直接証拠と被告人四名の弁解

1  有罪立証の直接証拠

被告人B子及び同Cが原判示第四の一のように被告人Aに現金一〇〇万円の賄賂を供与し、被告人Dが同第四の二のように右贈賄を容易ならしめて幇助し、被告人Aが同第五のように現金一〇〇万円の賄賂を収受した旨いう直接証拠は、前記被告人四名の各検面供述のみであり、その概略は次のとおりである。

(一) 被告人B子の検面供述

被告人B子の検面供述は、被告人B子は、長男で山田市臨時職員であるFが、昭和六〇年五月実施の山田市職員採用試験を受験することになったことから、長女G子の夫の父である被告人Cに相談して、Fが右試験に合格し市職員として採用されるように、山田市長である被告人Aに現金一〇〇万円を供与することとし、タンス預金の約四〇万円と化粧品販売業用の手持現金の約二〇万円を併せ、足りない分の三七万円を同月七日に銀行預金から引き出して一万円札で一〇〇万円を用意し、同日ころこれを被告人Cに渡して被告人Aに贈ることを依頼し、被告人Cから被告人Dと一緒に被告人A方に行って贈ってくる旨承諾を得、その後右試験の二次試験前に被告人Cから被告人A方に行って右現金を贈ってきた旨聞いていたところ、Fは同月二一日右試験に合格し、同年九月一日付で市職員に採用された、というものである。

(二) 被告人Cの検面供述

被告人Cの検面供述は、被告人Cは、長男Hの妻の母である被告人B子から、昭和六〇年五月実施の山田市職員採用試験を受験することになった被告人B子の長男Fが右試験に合格し市職員として採用されるように、山田市長である被告人Aに供与するよう依頼を受けて、同月七日ころ現金一〇〇万円を預かり、いったんはかねてからの友人で被告人Aの長男に長女を嫁がせている被告人Dを介してこれを被告人Aに贈ろうと考え、翌日ころ被告人Dに情を明かして被告人A方に右現金を持っていってもらったものの、被告人Aの妻から受取を断られたとして被告人Dから返還を受けたため、右試験の一次試験にFが合格してから改めて被告人Aにこれを供与しようと考え、同月一五、六日ころFから一次試験合格の確認を得たのち、同月一七日ころの夕方もう一度被告人Dに頼んで被告人A方に同行してもらい、被告人Aに対し、「Fが一次試験に合格したので二次の方でもよろしくお願いします。」と話して、被告人B子から預かっていた右現金を供与し、その後被告人B子に対して被告人Aに右現金を渡しておいた旨告げた、というものである。

(三) 被告人Dの検面供述

被告人Dの検面供述は、被告人Dは、かねてからの友人である被告人Cから、昭和六〇年五月実施の山田市職員採用試験を受験することとなった親戚のFが右試験に合格し市職員として採用されるように、長女I子の夫の父で山田市長である被告人Aに供与するよう依頼を受けて、同月上旬ころ現金一〇〇万円を預かり被告人A方に持っていったものの、被告人Aの妻からその受取を拒否されたためいったん被告人Cに返還していたが、同月中旬ころの夕方、被告人CからFが右試験の一次試験に合格したので被告人A方に二次試験のお願いに行きたいとして同行を依頼され、被告人Cが被告人Aに右現金を供与することを知りながら承諾して同行したところ、被告人Cは被告人Aに対し、「Fのことですが今度は二次試験がありますのでよろしくお願いします。」と話して右現金を供与した、というものである。

(四) 被告人Aの検面供述

被告人Aの検面供述は、被告人Aは、昭和六〇年五月一五日から同月一八日までの間の夕方に自宅を訪ねてきた、同年四月一七日死亡した長男Jの妻の父である被告人Dと近所で顔見知りの被告人Cから、同年五月実施の山田市職員採用試験を受験したFのことをよろしく頼む旨言われて現金一〇〇万円の供与を受け、同月一九日に行われた右試験の二次試験(面接と作文)の試験官として、その面接の採点においてFを他の受験者より若干甘く採点したうえ、翌二〇日のその作文の採点と最終合格者の決定に際しては、自らFを他の受験者より甘く採点するとともに、他の試験官らに「Fのことを頼まれているのでよろしく頼む。」旨告げたほか、最終集計で合格点に達しなかったFの点数を他の試験官らと相図って水増しし最下位合格者と同点にして補欠合格とし、同年九月一日付で市職員として採用した、というものである。

2  被告人四名の弁解

被告人四名は、原・当審公判においていずれも原判示第四の一、二、同第五の事実を否認しているが、その各弁解内容は概略次のとおりである。

(一) 被告人B子の弁解

被告人B子の原審(第三回公判調書中の被告事件に対する陳述部分、第一〇回、第二二回公判調書中の各供述部分、第三五回公判廷における供述)及び当審(第五回、第六回公判廷における各供述)における弁解は、昭和六〇年五月実施の山田市職員採用試験を受験したFが右試験に合格し市職員として採用されるように、山田市長である被告人Aに現金を供与しようと被告人Cと相談したことも、同月七日ころ現金一〇〇万円を用意して被告人Cに被告人Aに渡してくれるよう頼んだこともなく、被告人Aに対して右の趣旨で現金一〇〇万円の賄賂を供与したこともなかったのに、捜査段階においては、警察官から連日長時間にわたり時には大声を出されたり机を叩かれたり足を組んだと叱責され立たされたりしながら取り調べられ、食事もほとんど取れず睡眠不足で肉体的にも精神的にも限界状態になって、警察官らのいうままにやむなく虚偽の自白をした、というものである。

(二) 被告人Cの弁解

被告人Cの原審(第三回公判調書中の被告事件に対する陳述部分、第六回ないし第八回公判調書中の各供述部分、第三四回公判廷における供述)及び当審(第六回公判廷における供述)における弁解は、昭和六〇年五月実施の山田市職員採用試験を受験したFが右試験に合格し市職員として採用されるように、山田市長である被告人Aに現金を渡すことを被告人B子と相談したことも、被告人B子から頼まれて被告人Aに供与する現金一〇〇万円を預かったことも、これを被告人Dに頼んで被告人A方に持っていってもらい受取を拒まれたことも、その後被告人Dとふたりで被告人A方に行き、被告人Aに対して右の趣旨で現金一〇〇万円の賄賂を供与したこともなく、ただ同月ころ被告人Dに頼んで被告人A方にハムを届けてもらい、被告人Aの妻から受取を拒まれたことがあっただけなのに、捜査段階においては、警察官から耳元で大声で「市長に金をやったろうが。」と繰り返され、少年補導員のバッヂを付ける価値のない人間だとしてはずすよう命ぜられ、はては家族を逮捕すると脅されたり被告人B子は既に自白していると告げられたりなどして長時間にわたり取り調べられたため、警察官らのいうままにやむなく虚偽の自白をした、というものである。

(三) 被告人Dの弁解

被告人Dの原審(第三回公判調書中の被告事件に対する陳述部分、第二〇回公判調書中の供述部分、第三五回、第三六回公判廷における各供述)及び当審(第五回公判廷における供述)における弁解は、昭和六〇年五月実施の山田市職員採用試験を受験したFが右試験に合格し市職員として採用されるように、山田市長である被告人Aによろしく頼むと依頼する趣旨で、被告人Cから預かった現金一〇〇万円を被告人A方に持っていき被告人Aの妻から受取を拒まれたことも、その後被告人Cから頼まれてふたりでもう一度被告人A方に行き、被告人Aに右の趣旨で現金一〇〇万円の賄賂を供与したこともなく、ただ同月上旬ころ被告人Cから頼まれて被告人A方に何か生物を持っていき被告人Aの妻から受取を拒まれたことがあるだけなのに、捜査段階においては、自分の言うことは嘘だとして聞いてもらえないまま、警察官から「Cや市長は既に自白している。お前も白状せんと今夜は帰さん。」と言われるなどして長時間にわたり取り調べられたため、警察官らのいうままにやむなく虚偽の自白をした、というものである。

(四) 被告人Aの弁解

被告人Aの原審(第三回公判調書中の被告事件に対する陳述部分、第八回、第一七回、第一九回、第二五回公判調書中の各供述部分、第三六回公判廷における供述)及び当審(第六回、第七回公判廷における各供述)における弁解は、昭和六〇年五月中旬ころ被告人Cと同Dから現金一〇〇万円の供与を受けた事実はもとより、被告人Cや同Dから同月実施の山田市職員採用試験を受験したFが右試験に合格し市職員として採用されるように依頼を受けて賄賂を収受した事実はなく、右試験の二次試験の採点の際にFの点を水増しするなどして補欠合格としたことは間違いないものの、これは市議会議長や他の市議会議員らから頼まれていたからであって賄賂を受け取っていたからではなかったのに、捜査段階においては、警察官から連日長時間にわたり、怒鳴られたり叱られたり罵倒されたり、さらには同じ姿勢を強いられたりするなどの不当な取調をされたため、やむなく虚偽の自白をした、というものである。

二  間違いがないと認められる事実

関係各証拠を総合すると、次の事実は間違いがないと認められる。

1  福岡県山田市においては、昭和六〇年五月に市職員採用試験を実施することとし、同年四月から受験者を募っていたが、かねてから同市の臨時職員をしていたFもまたその行政事務職(採用予定人員五名)に応募し、右試験を受けることとなった。

2  Fの母である被告人B子は、Fの年齢等からして今回が最後の機会であると考えて是非とも右試験に合格させ正式職員に採用されるようにしたいと思い、Fが右試験に合格し採用されるように、市議会議員の甲山二男らにも口添えを頼む一方、市議会議長の丙川春夫には同年五月上旬ころ現金五〇万円を贈って口添えを頼み、また長女G子の夫Hの父である被告人Cにも山田市長である被告人Aに口添えしてもらうよう頼んでいた。

なお、被告人B子は同月七日に銀行預金から三七万円を引き出した。

3  被告人Cは、同年四月下旬ころかねてからの友人で被告人Aの長男J(同年四月一七日死亡。)に長女I子を嫁がせている被告人Dに同行を頼んで被告人A方を訪ね、被告人Aに対しFが右試験を受験するのでよろしく頼む旨申し出たものの、被告人Aからこのような時期に来ると人から色メガネでみられるから帰れと叱責されて帰った。

4  被告人B子から口添えを頼まれていた市議会議長の丙川春夫や市議会議員の甲山二男らも、被告人Aに対し右試験においてFをよろしく頼む旨の口添えをしていた。

5  右試験の一次試験は同年五月五日に行われ同月一五日にその合格者が発表されたが、Fは行政事務職の合格者一〇名中一〇位の成績でこれに合格した。

6  右試験の二次試験は同月一九日(日曜日)山田市中央公民館で行われたが、被告人Aは試験官としてFの面接の採点にあたって若干甘く点数をつけ、翌二〇日に行われた作文の採点と最終合格者の決定にあたっては、他の試験官らにFのことを頼まれているので補欠でいいから合格させてほしいと依頼し、最終集計で合格点に達しなかったFの点数を他の試験官らと相図って水増しし最下位合格者(五位)と同点にして補欠合格とし、同年九月一日付で市職員として採用した。

三  被告人四名の各検面供述とその各弁解の信用性の検討

右事実からすると、原判決が、被告人四名の各弁解は、とりわけ市議会議長の丙川春夫に現金五〇万円を供与しながら市長として市職員採用に最大の権限を有する被告人Aとも接触する方途があるのにこれに賄賂を供与しようともしなかったという点や、市長である被告人Aが単に市議会議員らから頼まれたというだけで他の試験官らに働きかけてまでFの点数を水増しし補欠合格とする露骨な不正工作をするものかどうかも疑問であることなどに徴すると、不自然で経験則に背馳し信用できないとして排斥したうえ、その各検面供述の信用性を肯定した判断も、一応理由があるといえそうである。

しかしながら、以下に述べるように、被告人四名の各弁解も関係各証拠とよく照らし併せると、原判決のいうように、不自然で経験則に背馳しているものとして、にわかに排斥しうるものではないと思われるし、被告人四名の各検面供述をその各供述経緯に関する証拠あるいはその公判供述の証明力を争うための証拠(刑事訴訟法三二八条の証拠)等とも対比しながら子細に検討してみると、重要な点で信用性に疑問を容れるべき部分が認められ、被告人四名に対する取調経緯にもその各検面供述の信用性に疑いを容れるべき事情が窺われるのである。

1  原判決のいう被告人四名の各弁解の不自然性等についての検討

(一) 被告人B子が市議会議長に現金を供与しているのに、市長には供与しようとしていないという点について

なるほど市職員採用に最大の権限を有するのは市長であって市議会議長ではないから、市議会議長に現金を供与したのであれば市長にも現金を供与しようとしたのではないかと考えることもそれなりに合理性がある。しかし、市議会議長に現金を供与したのであれば市長にも現金を供与しようとしたはずであるとまでいいきれるものでないことは論を俟たないであろう。市議会議長から市長に働きかけてもらうことに期待して、市長に対しては接触の方途があっても現金を供与しようとしないこともありうることであり、殊に丙川春夫のように市議会議長でありながら影の市長といわれるほど市政への影響力の大きさを噂されていたような場合には充分そういうことも考えられるからである。そのことは、証人乙川三男及び同戊山七夫の原審公判廷における各供述や押収してある辞職願一枚からほぼ間違いないと認められる、Fと同じ市職員採用試験を受けた乙川三男の父が丙川春夫にのみ現金一〇〇万円を供与している事実からも窺われるところである。

そこで、主に被告人B子の検面供述が市議会議長や市長に対する現金供与後の行動についていう部分から、原判決が被告人松田の弁解についていうところが当たっているかどうかみてみることとする。

被告人B子の検面供述によると、市議会議長の丙川春夫に対しては、昭和六〇年五月一五日の一次試験の合格発表後二次試験前に自宅を訪れ男性用化粧品を贈って念押しをし、同月二一日の合格発表後にはFとともに合格のお礼に自宅を訪れて蟹の缶詰等を贈り、同年八月の中元時期にはやはりFとともに自宅を訪問し早く採用されるようにお願いしてウイスキーを贈り、さらにFが同年九月一日付で山田市職員として採用された後には丙原四男を通じてお礼に現金五〇万円を贈ろうとしたが受け取ってもらえなかったので五万円だけを贈ったが、被告人Aに対しては、自分が出向くわけにはいかないので、同年八月の中元時期に五〇〇〇円位の調味料セットを送っただけである旨いうのである。なるほど、被告人B子の検面供述によっても、被告人Aに対し直接に贈賄してFの合格と採用に便宜を図ってもらうよう頼んだというのではないから、被告人A方に自分で直接出向きにくかったというのは理解しうるところである。しかし、丙川春夫に対してはお願いやお礼を執拗に繰り返しているのに比べると、被告人Aに対しては被告人Cらを介して接触することもできないわけではないはずなのに、その程度は儀礼的な範囲に止まっていることが明らかである。市職員採用に最大の権限を有するのは市長であって市議会議長でないことからすると、同じように現金供与をしたのであれば、丙川春夫に対してと同様あるいはそれ以上に被告人Aに対してお願いやお礼を執拗に繰り返してもおかしくないはずである。また、被告人B子の検面供述では、被告人Cが被告人Dを煩わして被告人Aに対する贈賄を実行したことを知っていたといいながら、被告人Cや同Dに対して何らかの挨拶なり謝礼なりをしていたという部分はなく、むしろ被告人B子の司法警察員に対する同年一一月二一日付供述調書によると、被告人Cに中元として清酒二本を贈っただけで、被告人Cや同Dに対して、お礼はしてはいないというのである。しかし、被告人Cや同D特に被告人B子やFと全く関係のない被告人Dに対しては、それなりの挨拶なり謝礼なりをするのが通常であろう。してみると、被告人B子の検面供述が本件贈賄後の行動としていうところは、被告人Cや同Dを介して被告人Aに対しFの市職員採用に関して贈賄した場合のものとしては不自然さが残るというべきであり、むしろ被告人B子の弁解のいうように被告人Cらを介して被告人Aに贈賄したことはない場合のものとしてより自然に理解しうると思われる。被告人B子の検面供述が市議会議長と市長に対する現金供与後の行動についていう部分からは、市議会議長には現金を供与したけれども市長には供与しようとしたことはないと旨いう被告人B子の弁解が、さほど不自然でないことが窺われるべきである。

(二) 二次試験における被告人Aの不正工作の理由について

被告人Aが二次試験において他の試験官らに働きかけてまでFの点数を水増しし補欠合格とする不正工作をしたことは、被告人Aが単に市議会議長や市議会議員らから頼まれていたというだけでなく、収賄していたことを窺わせる事実であるとみることももちろん可能である。しかし、被告人Aは昭和五七年九月の市長選挙で当選したが、しばらくは市長選挙で対立候補を支援した議長の丙川春夫をはじめとする反市長派が市議会の多数を占めていて議会運営に苦慮し、その後ようやく丙川春夫らとの関係を修復し、議会運営も比較的円滑にいくようになっていたものの、丙川春夫の市政に対する影響力は影の市長と噂されるほど大きな状態になっていたのであるから、被告人Aが丙川春夫らからFのことをよろしくと頼まれながら、その顔を潰すような不合格の決定をすることはそう容易ではなかったと思われる。また、被告人Aが実際に収賄していたとすれば、実際に採用されるかどうか判らない補欠合格とするのではなく、採用予定人員の五名以内の正式合格とするよう不正工作をしてしかるべきであったとも考えられないではない。被告人AがFを他の試験官らに働きかけてまで不正工作をしながら補欠合格に止めたことは、丙川春夫らの依頼に対する精一杯の配慮であったともみられるのである。してみると、被告人Aが二次試験において他の試験官らに働きかけてまでFの点数を水増しし補欠合格とする不正工作をしたことをもって、被告人Aが単に市議会議長や市議会議員らから頼まれていたというだけでなく、収賄していたことを窺わせる事実であるとまでみるのは早計に過ぎ、この点に関する被告人Aの弁解もただちに不自然とはいいきれないというべきである。

2  被告人四名の各検面供述の内容の検討

(一) 犯行日時について

被告人C、同D及び同Aの各検面供述で述べられている本件贈収賄に至る経緯、贈収賄の際の被告人Cや同Aの発言、収賄後の被告人Aの言動等からすれば、本件贈収賄の犯行日時が右試験の一次試験の合格発表前や二次試験後であったと考える余地はなく、山田市職員採用試験の一次試験の合格発表の日から二次試験の前日までの間の夕方ということになり、右の間違いのない事実と併せみると、本件贈収賄の犯行日時は、昭和六〇年五月一五日から同月一八日までの間の夕方ということになるはずである。しかし、本件贈収賄の犯行日時が右のとおりとすると、次のような疑問が払拭しきれない。

被告人Cの検面供述は、本件贈収賄の犯行日時は同月一七日ころの夕方というのである。しかし、被告人A及び同Dの各弁解並びに当審第三回公判調書中の証人E子及び同I子の各供述部分によると、同月一七日は被告人Aの長男で同年四月一七日死亡したJの最初の月命日にあたるため、夕方から亡J方で法事が行われ、実父である被告人Aも岳父である被告人Dもこれに出席していて被告人A方にはいなかったというのであり、これが虚偽であるとは考え難いから、本件贈収賄の犯行日時が同年五月一七日夕方とみることはできない(なお、検察官の当審弁論要旨は、月命日の点について原審においてはなんら被告人らから主張や供述がなされていない旨いうが、被告人Aは原審第一七回公判において、被告人Dは原審第三五回公判において、同月一七日夕方には亡J方であった月命日に出席した旨供述している。)。

また被告人Aの検面供述は、収賄をした翌日賄賂の現金一〇〇万円を入れた背広を着て市役所に登庁し、市長室の執務机の引き出しにこれをいったんしまったが、自分のいない時に誰かが引き出しを開けて見つけるかもしれないと心配になり、その日帰宅する際にまた自宅に持って帰り、右現金を自宅応接間の額の裏に隠したというのであるところ、同月一九日(日曜日)には前示のように山田市中央公民館で行われた二次試験に被告人Aも出向いており、平常のように市役所には登庁していないのであるから、本件贈収賄の犯行日時が同月一八日夕方であるとみることもできない。

そうすると、原判決は本件贈収賄の犯行日を同月一六日ころと認定しているが、右犯行日時は同月一五日か翌一六日の夕方となるはずである。この点について、被告人Aの弁解(当審分)並びに当審第三回公判調書中の証人E子及び同I子の各供述部分は、同月一六日夕方六時前後ころから一時間ないしそれ以上の間I子が被告人A方に翌日の孰の月命日の法事の打ち合わせに来ており、その間に被告人Cや同Dが被告人A方を訪ねて来たことはない旨いうのである。なるほど同月一六日夕方にI子が被告人A方に翌日のJの月命日の法事の打ち合わせに来たこともありうることといえなくもないが、その来た時刻や被告人A方にいた時間については、右各供述相互間に差異が認められるうえ、いずれも明確な根拠もなく述べられているにすぎないから、そのままには信じ難く、I子が被告人A方にいた時間が被告人Cや同Dが被告人A方を訪れた時間(被告人Dの検面供述によると、いつものとおりに仕事を終わった午後六時半ころから少したったころということになる。)と必ずしも重なるとはいえないので、同日夕方I子が被告人A方にJの月命日の法事の打ち合わせに来たことから、同日夕方に被告人Cや同Dが被告人A方を訪ねて来たことがないとまでは認めることができない。ところで、本件贈収賄の犯行日が同月一五日か翌一六日であったとすると、前示のとおり直後の同月一七日にはJの月命日の法事が亡J方で行われているし、またその後に四九日の法事なども行われ、それらには被告人Aも同Dも出席して当然顔を会わせていると推認される。ところが、被告人Dの検面供述は、「その後(本件贈収賄の後)市長の自宅に行ったこともありませんでしたし、市長もこの件について何も話したという様な事もありませんでした。」といい、被告人Aの検面供述も、「現金一〇〇万円を受け取ったあとは二人(被告人Cと同D)と会う機会も殆どありませんでしたし、道で顔を会わせても別にFの件については何も話しておりません。」というだけで、右の各法事のあったことやそれらの機会にふたりが顔を会わせたことについては全く触れていない。本件贈収賄の犯行日時が同月一五日か翌一六日の夕方であったとすると、その後の被告人Aと同Dの接触状況に関するその各検面供述の内容には疑問が残らざるをえない。また、被告人Aや同DにとってJの最初の月命日である同月一七日は比較的記憶に残る日であったと考えられ、それを基準にすれば被告人Cより以上に本件贈収賄の犯行日を特定し易いはずであったと思われるのに、被告人Dの検面供述においては「五月中旬ころ」と、被告人Aの検面供述においては一次試験の合格発表の日と二次試験の日とを基準にして、「五月一五日から五月一八日までの間」としか特定されていないのも、不自然な感を否めない。そうだとすると、本件贈収賄の犯行日時が同月一五日か翌一六日の夕方であったともにわかには考え難いというべきであり、さらには被告人A及び同Dの各検面供述が孰の最初の月命日についてなんの言及もしていないことは、それがその被告人自身の記憶に基づく供述ではなく、Jの最初の月命日など念頭にない捜査官の誘導によるものであることを窺わせるものとみることもできそうである。

(二) 賄賂金の出所について

被告人B子の検面供述によれば、賄賂とした現金一〇〇万円は、前示のとおり、タンス預金の約四〇万円と化粧品販売業用の手持現金の約二〇万円、一〇〇万円に不足するとして昭和六〇年五月七日に銀行預金から引き出した三七万円の合計一〇〇万円で、全て一万円札であったというのである。なるほど被告人B子が当時化粧品販売業用の手持現金として約二〇万円を所持していたことは、関係各証拠から認められるその営業内容からみて格別不自然とは思われないし、前示のように、前記日に銀行預金から三七万円を引き出したことも間違いない事実と認められる。しかし、賄賂金の出所についていう被告人B子の検面供述にも、次のような疑問がある。

まず、被告人B子の検面供述によれば、タンス預金の約四〇万円は、Fが毎月食費として三万円ずつ渡してくれるのを溜めた分や時々やっていた下着や貴金属などの訪問販売の利益を溜めていたものとして説明されているだけであるが、被告人B子の司法警察員に対する同年一一月一五日付、同月二一日付及び同月二二日付各供述調書においては、この分は(本件贈収賄の時から)一年位前から始めた分で、Fの月三万円の分だけでも一年間で三六万円となり、下着の売上金などを入れて四〇万円位あったのは間違いがなく、自宅二階の自分の部屋にある洋タンスの中に入れていた旨比較的詳しく説明している。しかし、前叙のとおり昭和五九年一一月一日から福沢諭吉肖像の新一万円札が発行されているのであるから、Fが被告人B子に毎月食費として渡していた三万円は、タンス預金を始めた同年五月ころから同年一〇月ころまでの間は聖徳太子肖像の旧一万円札があったことが明らかであり、右のタンス預金の約四〇万円は新旧の一万円札が入り混じっていたはずである。被告人B子の検面供述には、賄賂とした一〇〇万円に新旧の一万円札が入り混じっていたなどという部分はなく、他方昭和六〇年五月の時点での調達を前提にして新一万円札で一〇〇万円を用意したものとすれば、タンス預金のうちの旧一万円札をどのようにして新一万円札に揃えたのかについての説明が欠けている。また被告人B子の司法警察員に対する同年一一月二四日付供述調書によると、Fが山田市職員に採用された後の同年九月中旬ころ市議会議長の丙川春夫に謝礼として贈ろうとして受取を拒まれた現金五〇万円の中には、浩二が被告人B子に毎月食費として渡していた三万円の同年五月から同年八月分が含まれていたというのであり、タンス預金が本件贈収賄の後も続いていたことを窺わせるけれども、司法巡査作成の捜索差押調書(原審検二八四号)によると、同年一〇月一三日に行われた被告人B子方の捜索差押に際して右のタンス預金が発見されたような形跡はなく、被告人B子の捜査段階における供述にもそれに触れた部分は認められない。してみると、タンス預金をしていてそれが賄賂金の一部となった旨いう被告人B子の検面供述はすぐには信じ難い。

また化粧品販売業用の手持現金である約二〇万円も、それが集金した現金や集金の際の釣銭等からなっていることからすると、その全てが一万円札であったとは考え難いところ、被告人B子の検面供述では、それをどのようにして一万円札に揃えたのかの説明が欠けている。

さらに被告人B子の検面供述によれば、同年五月七日ころには訪問販売用の洋服の仕入れ代金に当てるため同年四月六日に銀行預金から引き出した現金五〇万円が手元にあったというのであり、しかも押収してある通帳一通によると、同年五月八日に五一万五〇〇〇円が銀行預金に入金されているが、これは化粧品の売上金であったというのであって、右五一万五〇〇〇円が同日一日で集金されたものということでない限り、同月七日の時点において右タンス預金や化粧品販売業用の手持現金の外にも一〇〇万円前後の現金が被告人B子の手元にあったことになり、銀行預金から三七万円を引き出さなくても、充分賄賂金は用意できたはずということになる。他方同月七日に銀行預金から三七万円を引き出す必要性があったとすれば、前述のような理由からタンス預金や化粧品販売業用の手持現金等を併せたのでは、新一万円札一〇〇枚が揃わなかったからということになると思われるが、被告人B子の検面供述ではそのような説明はなされていない。これを要するに、被告人B子の検面供述では、同月七日に銀行預金から三七万円を引き出す必要性について合理的な説明がなされているとは認められず、これが賄賂の一部となったというのもそのまま措信してよいか疑問が残る。

(三) 賄賂金の使途について

被告人Aの検面供述によると、現金一〇〇万円は応接間の額の裏に隠しておきうち五〇万円を妻に渡し、残りの五〇万円は何回かに分けて取り出し、交際費等として費消したというのである。しかし、被告人Aが妻に渡したという五〇万円については、妻においてそれを受け取りどのようにしたかを裏付ける証拠は存しない。また、被告人Aが交際費等としてその当時相当多額の出費をしたことについては間違いないと考えられるものの、これを市長としての給与や賞与その他の収入から支出したのでなく、本件賄賂から当てたことを裏付ける証拠は存しない。してみると、被告人Aの検面供述が賄賂をどのように処分したかについていう部分は、そのいうところの真実性を担保するだけの裏付けに欠けるというべきである。

3  被告人四名に対する取調経緯等

被告人四名の各検面供述の信用性について考えるうえで、その捜査段階での取調状況や自白に至る経緯を看過することはできないが、これについては、概ね原判決が「被告人らの供述調書の任意性について」と題して詳細に判示するとおりであり、被告人四名に対する警察段階での取調にはいずれも問題があり、そこには任意性を問題にする余地も虚偽の自白を招くおそれも多分にあったといわざるをえない。原審において、被告人四名の司法警察員に対する各供述調書が罪体立証の証拠としてではなく、被告人四名の各公判供述の信用性を争う刑事訴訟法三二八条の証拠として取り調べられているのも、その趣旨で理解しうるところである。

ところで、捜査段階においては、被疑者らのうちのひとりが自白をすれば、否認をしている他の被疑者らに対する取調はいっそう厳しくなり、否認を続けることがより困難となることや、いったん自白すればその後に自白を撤回して否認を維持することが困難となることは多言を要しない。その意味で最初の自白が虚偽の自白を招くおそれのない状況で得られたものかどうかは、その後に得られた他の者らあるいはその者自身の自白の信用性の判断をも左右する事柄である。

そのような観点から被告人四名のうちの最初の自白調書である被告人Cの司法警察員に対する昭和六〇年一〇月一二日付供述調書が録取されるまでの取調状況をみると、少なくとも原判示のように、警察官は、前日及び当日とも朝早くに出頭を求めてから夜遅くまで長時間にわたり、被告人Cが退去することも事実上困難にした状態で、大声で叱責し少年補導員のバッヂを付ける価値のない人間だとしてはずすよう命ずるなどの、心理的圧迫を伴う厳しい取調を続けていたことは間違いがなく、任意捜査の限界を越えた取調ともいうべきものであるから、このような取調状況下では、当時六九歳の被告人Cにとって警察官の意向に逆らいながら否認を続けるだけの精神力が途絶え、そのいうままに虚偽の自白をせざるをえなかったことも充分ありうると考えるのが相当であり、右自白調書をそのまま信用するわけにはいかない。

また、被告人Dについても、任意出頭を求められた最初の日である同月一二日のうちにごく概括的な自白調書を録取されているが、その供述調書は、警察官が早朝から深夜まで時には大声を出したりしながら取り調べたうえ、被告人Cや同Aが既に認めているとして自白を求め得られたわずか二丁からなるものであって、このような取調状況下では、当時六九歳の被告人Dにとっては被告人Cと同様にやむなく虚偽の自白をせざるをえなかったことも充分ありうると考えるのが相当であり、これをそのまま信用するわけにはいかない。

むしろ、任意捜査段階での被告人C及び同Dの取調警察官に対する供述については、次の点に注目すべきである。すなわち被告人Cの公判段階での弁解は、前示のように被告人Dに依頼して同年五月ころ被告人A方にハムを持っていってもらい、被告人A方では受け取らなかったため被告人Dから返されたことはあるが、現金を被告人A方に持っていくなどしたことはないというのであり、また被告人Dの公判段階での弁解も、前示のように被告人Cから依頼されて同月ころ被告人A方に何か生物を持っていき、被告人A方で受け取らなかったため被告人Cに返したことはあるが、現金を被告人A方に持っていくなどしたことはないというのであるところ、原審第二六回公判調書中の証人丁田五男及び同甲谷六男の各供述部分によれば、これと同旨の弁解が、既に同年一〇月一二日に、被告人Cと同Dからそれぞれ別個に取調警察官である右各証人らに対しなされていたことが認められるのである。被告人Cは前日の同月一一日から取調を受けていたのであるから、被告人Dと連絡を取り供述内容の打ち合わせをしたと考える余地もないではないが、関係各証拠からはそのような事実は窺えない。してみると、被告人C及び同Dの右弁解には容易に排斥し難いものがあるといわざるをえない。

被告人C及び同Dは同月一三日から、被告人B子は同月一四日からいずれも同年一一月七日折尾警察署に出頭するまで逃走し、同日逮捕された後、それぞれ時間の長短や経緯の違いはあるものの、いったん否認してから、警察官の取調において本件贈賄を自白するに至っている。しかし、右各自白は既に自らあるいは共犯者とされる者において自白した後のものであり、その取調状況は前示のようなものであるから、これをそのまま信用するわけにはいかない。もっとも、被告人C、同D及び同B子が右のように逃走していたことからは、右被告人三名が実際に本件贈賄に関係していたためであると考える余地もないではないが、原判示のように警察官による取調は非常に苛酷であったことを考えると、むりやり虚偽の自白をさせられ家族からも責められていたたまれずあるいはむりやり虚偽の自白をさせられそうになったために所在を隠したなどという右被告人三名の弁解を簡単に排斥することはできない。

そして、被告人C、同D及び同B子の各検面供述は、その任意性については肯定しえないでもないとしても、共謀状況や賄賂金の準備、被告人A方での贈賄状況等について述べる部分をはじめとして、被告人Cの司法警察員に対する昭和六〇年一〇月一二日付、同年一一月一五日付、同月一八日付及び同月二〇日付各供述調書等、被告人Dの司法警察員に対する同月八日付及び同月一七日付各供述調書等並びに被告人B子の司法警察員に対する同月一五日付、同月二一日付、同月二二日付、同月二四日付(三通)及び同月二五日付各供述調書等とそれぞれ表現、内容が非常によく似ており、これらをもとに総合整理して取り調べ録取されたものと考えられるから、その司法警察員に対する各供述調書から離れて信用性を肯定しうるものとは認め難い。してみると、被告人C、同D及び同B子の各検面供述は、警察官による相当に厳しく虚偽の自白を強いるおそれのある取調の強い影響の下に得られた自白であり、その内容の信用性を安易に肯定するわけにはいかない。

被告人Aに対する捜査段階での取調状況や自白に至る経緯については、先に「第一原判示第二の事実に関する事実誤認の主張について」の判断に際して述べたことのほか、原判示第四の一、二及び同第五の事実の関係でさらに、被告人Aが検察官に対する昭和六〇年一一月一五日付供述調書においてその収賄の事実を認め、同月一七日の自宅での実況見分においてその収賄状況を説明し、同月二六日右事実で逮捕されてからも弁解録取や勾留質問の機会をはじめ警察官や検察官の取調においてもこれを自白していたことが認められる。しかし、被告人Aの自白以前に被告人C、同D及び同B子を自白していたことは前示のとおりであり、被告人Aは既に原判示第二の事実の関係で前示のような状況下で自白をしていたのであるから、右事実についての自白よりも信用性が乏しいことは明らかである。また被告人Aの検面供述はその任意性については認められないではないとしても、被告人Cらから収賄した状況やその時の気持、二次試験における不正工作、賄賂の処分等について述べる部分をはじめとして、被告人Aの司法警察員に対する同月二六日付(二通)及び同月二七日付(二通)付各供述調書等と表現、内容が非常によく似ており、これらをもとに総合整理して取り調べ録取されたものと考えられるから、その司法警察員に対する各供述調書と離れて信用性を肯定しうるものとは認め難い。してみると、被告人Aの検面供述は、警察官による相当に厳しく虚偽の自白を強いるおそれのある取調の強い影響の下に得られた自白であり、その内容の信用性を安易に肯定するわけにはいかない。

以上のことからすれば、本件贈収賄をいう被告人四名の各検面供述は、その捜査段階での取調状況や自白に至る経緯に虚偽の自白を招きかねない事情が窺われ、これをそのまま信用するわけにはいかないものというべきである。

4  被告人四名の弁解の信用性について

被告人四名の各弁解を個別に検討すれば曖昧な部分や明らかに信用できない部分、供述が変遷している部分等もないわけではない。例えば、昭和六〇年五月七日に引き出された三七万円の使途については被告人B子は明らかにしえていないし、被告人B子の弁解が、市議会議長の丙川春夫に供与された五〇万円に政治献金の趣旨が含まれていたなどというのが虚偽であることは明らかである。また被告人Cの弁解が、被告人Dにハムを被告人A方に持っていってもらったという時期が原審と当審とで異なっていることも明白である。そして、被告人四名の各弁解の中には、他にも捜査段階における供述の経緯が必ずしも事実と合致していない部分や、捜査官の取調の厳しさをやや過大に述べたりなどしていると窺われる部分がないではなく、その弁解の全てをそのまま信用するわけにはいかない。しかしながら、被告人四名の各検面供述には、先に詳述したとおり、いくつかその信用性に合理的な疑いを容れるべき点が存し、それが反面被告人四名の各弁解の合理性を示すものでもあるので、本件贈収賄を否定する被告人四名の各弁解を虚偽であるとして排斥することはできない。

5  まとめ

以上検討してきたところによれば、本件贈収賄をいう被告人四名の各検面供述は、その内容自体が重要な部分において不合理不自然な点を含み裏付けを欠いて迫真力に乏しく、しかもその捜査段階での取調状況や自白に至る経緯に虚偽の自白を招きかねない事情が窺われるのであるから、本件贈収賄を否定する被告人四名の各弁解を排斥するだけの信用性に欠けるものといわざるをえない。

四  結論

以上のとおりであって、原判示第四の一、二及び同第五の各事実の直接証拠である被告人四名の各検面供述は、本件贈収賄を否定する被告人四名の各弁解を排斥しうるだけの信用性を有するものとは認められず、他に右事実を認めるべき証拠も存しないから、被告人B子及び同Cが原判示第四の一のとおり被告人Aに現金一〇〇万円の賄賂を供与し、被告人Dが同第四の二のとおり右贈賄を容易ならしめて幇助し、被告人Aが同第五のとおり現金一〇〇万円の賄賂を収受したと認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある。各論旨はいずれも理由がある。

第三破棄自判

よって、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により、原判決のうち被告人四名に関する部分を破棄し、同法四〇〇条但書を適用して、当裁判所においてさらに次のとおり判決する。

本件各公訴事実は、「被告人Aは、福岡県山田市市長として、水洗炭業に関する法律に基づき、同市内において同事業を営もうとする者から同事業者の登録申請書の提出を受け、これを同県知事に送付するにあたり、その登録の申請についての意見書を添付する職務権限を有していた者であるが、昭和五九年一〇月一九日ころ、同市《番地省略》の自宅において、水洗炭業等の事業を目的とする丁原産業株式会社の代表取締役として、同会社が同市《番地省略》において水洗炭業を営むにあたり同県知事の登録を受けようとしていた甲野太郎から、先に前記丁原産業株式会社のなした水洗炭業者の登録申請につき、同市長としての前記職務権限に基づき、同月一三日の同県知事あてに提出した右登録に反対する旨の意見書を撤回し、改めてこれに賛成する旨の意見書を提出するなど、同会社のため便宜・有利な取扱いを受けたいとの趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら、現金二〇〇万円の供与を受け、もって、その職務に関し賄賂を収受し」、「被告人B子は、昭和六〇年五月施行の福岡県山田市職員採用試験に応募し受験したFの実母、同Cは右B子と姻戚関係にある者、同Dは右Cの知人であり同市市長Aと姻戚関係にある者であるが、被告人三名は、共謀の上、同月中旬ころ、同市《番地省略》の四の右A方において、同市市長として同市職員採用試験及び同市職員採用に関する職務権限を有していた右Aに対し、右Fを右採用試験に合格させた上、同市職員として採用してもらいたいとの趣旨のもとに、現金一〇〇万円を供与し、もって、右Aの右職務に関し賄賂を供与し」、「被告人Aは、福岡県山田市市長として同市職員採用試験及び同市職員採用に関する職務権限を有していた者であるが、昭和六〇年五月中旬ころ、同市《番地省略》の自宅において、C、D及びB子から、同月施行の同市職員採用試験に応募し受験した右B子の長男Fを右試験に合格させた上、同市職員として採用してもらいたいとの趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら、現金一〇〇万円の供与を受け、もって、その職務に関し賄賂を収受し」たものであるというのであるが、前示のとおり、いずれも犯罪の証明がない(被告人Dに対する関係では原審認定の贈賄幇助の限度でももとより犯罪の証明がない。)から、刑事訴訟法三三六条により、被告人四名に対し、いずれも無罪を言い渡すこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 丸山明 裁判官 萩尾孝至 森岡安廣)

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